満ちない三日月

九州にUターン移住を考える25歳の自分探し

卒業写真

桜が満開だと、ユーミンを聴きたくなる。(頭の中では「春よ、来い」と「卒業写真」が交互で流れているが、れっきとした平成生まれです)
4月1日は入社式らしき集団をあちこちで見かけた。
3年前の自分から大きく変わった気はしないが、そういえば社会に馴染もうと肩に力を入れなくてもいい程度には角がとれたなぁと、しみじみ思う。上司の旅行のお土産をなぜか自分が配ることに、違和感すら覚えなくなった。そんな自分を必ずしも歓迎していない自分と、それもまた成長と認めてあげたい自分が、必死で戦っている。

そういえば、学生はまだ春休みである。実家にいた頃、長期休暇の昼ごはんは麺のローテーションだった。スパゲティ、うどん、そば、焼きそば、たまにお好み焼き。親の気持ちになってみれば面倒な子だが、飽きっぽい自分はおかずを考える手間を無視して、よく米を食べたいと文句を言ったものだった。飽きっぽい性分なのか、外食先でも同じメニューは二度頼まなかった。季節限定や新メニューに惹かれる。
テレビや小説の中に出てくるサラリーマンは、行きつけの定食屋でいつものランチを食べていて、当時の自分にとってそれは人生の楽しみを失った歯車の象徴のように感じていた。
かといって、ランチに情熱を傾ける姿を好意的に受け止めていたかというとそうでもなく、サラリーマンのランチを追いかける番組で、休憩時間の1時間で電車に乗って15分でお目当てのご飯を食べて帰ってくるといった生活をしている方の特集を見たときには、そんなノルマをこなしていく人生も嫌だなぁと思ったものだった。
要するに、斜に構えた子供だったし、今もそうだという話。

ところで、東京の電車は車両が多い。ホームに電車が到着するとき、一番前の車両は予想以上にスピードが出ていて驚いた。
大学時代も電車通学だったが、いつも異なる車両に乗るようにしていた。一番前に乗ることもあれば、階段から近い車両に駆け込むこともあった。
ところが働き始めてから、そういえば、いつも同じ車両の同じ扉から乗車している。
それには当然、学生と社会人の通学・通勤時間の差も関係していて、混んでいる電車にスムーズに乗るには、やはり階段から近い場所が最適だからという理由もある。よく訓練されたサラリーマンたちは、降りる駅の階段に一番近い扉から最大数降りるから、その空いた空間に乗りやすい。
けれど、毎日毎日同じ車両に乗りながら、自分が行きつけの店で同じメニューばかりを食べる人の側に寄ってきているようだった。ようだったと評する辺り負けず嫌いが垣間見えるが、そういう人間の一員になったと思う。
事実、ランチに一人で訪れる店は5つほどに絞られていて、お弁当を買うのもコンビニかとある焼肉屋の500円弁当くらいである。

大学を卒業して丸3年、大学院に行ったり、浪人したり留年していた友人も、だいたい社会人になった。
数か月ぶりに会っても全然変わらないけれど、斜に構える自分は心の中にしまって、外面は飲み会で上司の自慢に付き合ったり、出張の手配をしているらしい。あんなにすぐ転職するといっていた奴らが、なかなか会社を辞めていないあたり、それもそれで居心地がいいのだろう。
変わっていく私を時々遠くで叱ってくれるはずの”あなた”は、社会人になった集団のなかには不在だ。だけどもし”あなた”がいたところで、私はその声に耳を傾けるだろうか?
春は、まだ遠い。